2005年09月24日

「砂に沈む月」について

宮沢章夫さんの「砂に沈む月」を上演する、
DOUBLE-STANDARDという団体の公演を見てきました。
僕は、宮沢章夫さんの台本(演出は別の人だけど)の演劇を見るのは、
初めてだったので、結構、楽しみにしてたのですが、
"予想どおり"に、結構面白かった。
でも、"予想どおり"に、お客さんは結構寝ていたし、
僕自身も、面白かったけど、楽しめはしなかったので、
そこんとこの理由を書いておこうと思います。

「砂に沈む月」という演劇は、
来る日も来る日もただ砂漠を監視し続ける、
砂漠監視隊の人々のお話で、
一言で言ってしまえば、退屈なお話です。
というのも、砂漠監視隊の人々は、
何もやることがない人々なんですね。
だから、しょうがなく、暇つぶしをするんですけど、
その暇つぶしが、ややナンセンスで、
外(観客)から見ていると、シュールなコントのように見える、
というのが、この演劇の構造だと思います。

そういう暇つぶしをしながらも、
その暇さ加減に耐えられなくなって、
徐々に、砂漠監視隊の人々は狂っていく。
この過程をすごく退屈に描いていきます。

この演劇を面白く見るコツとして、
90年代的な感受性が必要だと思います。
それは、やや古臭いですけど、
「終わりなき日常」をどう生きるかについての感受性です。
宮台真司がよく言っていたアレです。

たとえば、
岡崎京子の「リバーズ・エッジ」(94年)、
ホンマタカシの「東京郊外」(98年)、
Mr.Childrenの「Tomorrow never knows」(94年)、
90年代の、漫画、写真、音楽から、代表的なものを抜き出してみると、
確実に共通する世界観が見い出せると思います。
そして、それは、三島由紀夫が、70年に、
"無機的な、からつぽな、ニュートラルな、
中間色の、富裕な、抜目がない"と予見した、
或る経済的大国の姿だと、僕は思うのです。

だから、今、自分がそういう日常を生きているんだという感受性がある人、
にとっては、「砂に沈む月」の砂漠と砂漠監視隊というのが、
どういうメタファーなのかが、わかるんだと思うのです。
考えてみれば、メタファーとしての日本の砂漠って絶妙だなあ。
ただ、
不特定多数、それも趣味嗜好の異なる人間が集まりやすい、
演劇の観客にとって、果たして、商品として成り立つのか。
簡単に言えば、お金を取っていいのか、悩みます。

それと、個人的な時代観、歴史観で言えば、
「終わりなき日常」的感性って、
95年の阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件で、
頂点に来たというか、決壊した感じがしていて、
もちろん、今はグレーゾーンなんだけど、
少しずつ、そのからっぽなものを埋めようとしている人が、
出てきている気がするのです。
言葉にすると陳腐ですが、砂漠に木を植える、みたいな。

たとえば、村上春樹の「アンダーグラウンド」という作業や、
「神の子どもたちはみな踊る」とか。
宮台真司だって、その言説を変えていったと思うし。
なんだか、とってもサブカル的な批評で、
わかんない人が多そうな文章だな。ごめんなさい。

勝手で偉そうな言い分なんですけど、
「砂に沈む月」は、誠実な感じがしました。
僕自身、そんなに楽しめなかったんだけど、
楽しめなかったことだけ見て、切り捨てたくない何かがありました。
ただ、僕は、その誠実さは、作者の時代に対しての誠実さで、
観客に対しての誠実さではないと思いました。
たとえ、誠実なんて言葉が、欺瞞に満ちていたとしても。
posted by 鈴木厚人 at 06:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 舞台レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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