2005年08月01日

北朝鮮と思想を伝える演劇

鳥の眼・蟻の眼・象の鼻 vol.1
「北朝鮮と思想を伝える演劇」

最近、演劇で思想を伝えられるか?ということをよく考えている。
もっと、簡素に言えば、観客にテーマを伝えられるか?
ということなのだけど、
自分の芝居に関しては、もう答えは出ていて、
面白い芝居で、かつ哲学的な思想を伝える演劇を、僕は作れない。
その才能はない。

ただ、演劇で思想を伝えられるか?を考えること、
もしくは、演劇で思想を伝えられるとして、
伝える必要があるのか?を考えることは無駄ではないと思う。
つまり、思想が表現の表面に見える、見えないは別として、
そこにあるということが、大事なのではないかと思う。

例えば、人質拉致問題がある。
僕は、この人質拉致問題および被害者の会の人々のことを思うと、
いつも馬鹿だなあと思ってしまう。
何が馬鹿だなあと思わせるのか?
それは、政治とは何かがわかっていないなあと感じるからである。
政治とはつまるところ、集団的意思決定のことである。
個人の利益よりも集団の利益を優先するのが政治である。
だとしたら、横田さんを救出することよりも、
日本に核ミサイルが飛んでこないようにすることのほうが大事だ。
つまり、いくら家族が求めても、人気取りという動機以外で、
日本政府が本気で拉致被害者の帰国を、
優先して交渉するなんてことはありえない。
だから、僕がこの問題を演劇にして、思想を伝えるとしたら、
大きな利益のためなら、小さな犠牲も止む得ないということを伝えるだろう。

果たしてそうなのか?そういう詭弁の下で、
どれだけ多くのか弱き個人が、国家の犠牲になってきたのか。
演劇で思想を伝えられるとして、
そんな人としての優しさを欠いた思想を伝える必要があるのか?
浜辺を歩いていただけで連れ去られ、
何十年も我が家に帰れない一人の娘を想像したことがあるか。
生きているか死んでいるかもわからないその娘のことを、
何十年も、いつか帰ってくると信じ続けている両親の姿を想像したことがあるか。
本当に伝えるべき思想は、必死に生きている個人の想いなのではないか?

ある時、思想は、個人を傷つけ、また、殺し、
ある時、思想は、感情的になって、視界を曇らせる。
そもそも、思想は、思想を持たない者を糾弾しさえするし
厄介なことに、思想をもたないということが、一つの思想だったりもする。
だからこそ、相対化が必要なのである。
それは、一人の男が、例えば社長でありながら、
父親であり、息子であり、夫であることと似ているのだと思う。
僕らと僕らの芝居は、一つの思想だけを持っていてはいけないし、
複数の想像力を持っていなければいけないのだ。
posted by 鈴木厚人 at 03:25| Comment(7) | TrackBack(0) | つぶやき手帖 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
またも馬・鹿という単語が出てきたのを見たときはかちんときましたが、最後まで読んで持ち直しました。振り落とすがまでの切り返し。こういう潔さ、芝居でも面白いかもしれない


複数の想像力の並列について、たとえについては合っていない気もするけれど、共感します。

Posted by 匿名 at 2005年08月01日 21:04
常に断言。偉いんですねぇ。それが貴方の芝居に全く反映されてないという皮肉。例の炎上記事、消したんですか?否定的コメントも大歓迎と言いながらの矛盾。やはり都合悪い記事は消去に限りますよね。これも消していいですよ〜。
Posted by ばかぼん at 2005年08月01日 22:26
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Posted by 鈴木厚人 at 2005年08月02日 03:01
頭でっかちですね。
偉そうな上に面白くない。
才能なくて可哀想。
Posted by 遠藤 at 2005年08月02日 21:14
いつも思想的な話については非常に面白く見させてもらっています。
確かに拉致被害者の家族の方たちが冷静になれないのは責められるべきことではないでしょうが。
複雑な世であるからこそ相対化が必要なのだと思います。ただ、複数の思想を持っていたとしても相対化が行き届いているという保証はないですよね。複数の思想が集まっても、それはただの思想の集まりであって、複数ある=相対化できているということにはなりえないですから。
とするならば、思想を持つという発想自体をもさらに自省的に考えた方がいいのかもしれないですね。
そうなると演劇はさらに難しいものになるでしょうが。
Posted by n2 at 2005年08月05日 00:13
n2さんは僕より相対化というのをきちんと考えてるみたいですね。僕の相対化は、複数の視点を同じ優先順位でもつという意味で、n2さんはもった上で何を見るかが大事だと、おしゃってるように感じました。

ただ、僕の中には、矛盾しますが、相対化しすぎちゃいけないと思う気持ちもあるのです。極端に言えば、たとえ国家が滅びようとも、娘ともう一度会いたいと思ってしまう心があることが、人間の一つの、かけがえのない性質だと思うからです。全てを相対化するということは大切ではあるけれども、人間に灰色の世界しかもたらさない。それだけじゃ僕らは生きられない。色眼鏡で物事を見るということが、ある時は必要なのかもしれません。
Posted by 鈴木厚人 at 2005年08月05日 09:41
おっしゃる通りだと思います。特に人間の感情が深く絡む事情であれば、なおさらそうだと思います。政治や法律であればかなり相対化は可能ではあると思いますが。ただ、完璧な相対化というのもありえない。完璧を目指す時点で相対化ではないですから。
日々生活していく上では自分もそこまで相対化しているわけではありません。割り切るのも必要ですね。
そして、演劇について、そのあり方そのものに悩んでおられるあなたはそれだけで相対化できる、自省的に考えられる人だと思います。
これからもがんばってください。
Posted by n2 at 2005年08月05日 15:36
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