2005年07月11日

演劇論「失われた"肉体と文体"を求めて」 -その2-

演劇論「失われた"肉体と文体"を求めて」 -その2-

大分、時間が開いてしまったけど、
自分だけの演劇論を再開したいと思う。
まず、"その1"で書いたことの復習から。

人間が装置化していき、
人間の思考と思想、つまり、思いと想いが、情報化していく。
そんな時代の流れを感じながらも、
人間とは、なんなのか?
自分の演劇と、自分の生活を通して、そこを考えていく。
今日は、文体、つまり、言葉について書きます。
情報化しない言葉とは何なのか?

以前、ブログでこんなエントリーを見つけて、
「アフタートーク」っていうの、やめませんか。
いい、悪い、ではなくて、
とても情報化してしまった言葉が好きな人だなあと思った。
つまり、僕は、アフタートークという言葉は、
英語圏で通じないからこそ面白いし、
だから、日本で流行って欲しいと思う立場なのだ。

情報化してしまった言葉というのは、
何かに置き換え可能な言葉ということである。
要するに、辞書に書かれているとおりの言葉の使い方である。
翻訳できる言葉とも言えるのかもしれない。
要は、使い方が決まってる言葉なんて、つまらないって思うのさ。

何か、演劇に限らず、
作品をオリジナリティーという物差しで測ることは多い。
でも僕は、本当のオリジナリティーというのは、
作った人しか、わからないもののことだと思っている。
例として、ふさわしくはないが、議論を極端にしたほうわかりやすいので、
あえて、挙げる。神戸の酒鬼薔薇少年は、
かなりオリジナリティーある少年だったと思う。
でも、彼がオリジナリティーある少年だったと評価する人はいない。
なぜか?わからないからである。
彼のオリジナリティーを理解できないからである。
つまり、作品を測る時に使われる、オリジナリティーは、、
誰もが独創的だと共感できた気がする独創性のことで、
本当のオリジナリティーではない。

でも、僕は、偽物と便宜上つけてしまうけど、
偽物のオリジナリティーは大事じゃないとは思っていなくて、
それは、多くの人が持っている共有前提から、
ちょっとだけ前へ進んでいる面白さ、だと考えている。
だから、アフタートークという言葉は好きである。
アフターは、"後"という意味で、そこに文法的には間違ってるけど、
トークをつけたら語感がいい、みたいな発見があって、
共有前提から、ちょっとだけ前へ進んでいる面白さがあると思う。

僕は、自分の台本の中で、
"共有前提からちょっとだけ前へ進んでいる"言葉の面白さの実験をしていて、
残念ながら、まだそこの部分を面白いと思ってくれるお客さんは少ない。
だから、偽物のオリジナリティーとしては、失敗しているのだと思う。

例えば、「幸服」では、
「十と十で二十」という日本語を、音として解体すると、
「ジュトジュデニジュ」になって、
これを一息で言うと語感がフランス語ぽくなる、
そして、無理やりフランス語にすると、「jeとjeで2je」。
jeっというのは、英語だとTにあたる単語なので、
「僕と僕はいつも僕二人」って、これも無理やり意味をつけて、
孤独な人間が、ひとりぼっちの自分をなぐさめる呪文みたいに、
「ジュトジュデニジュ」「ジュトジュデニジュ」と、
連発する台詞を書いたのだけど、
フランス語がわからない人は、あまり面白くなかったみたいなのだ。
(日本語がわかるフランス人は面白いと思ってくれたみたいだけど。)
まあ、お客さんは台詞の面白さだけを味わいに来るわけじゃなくて、
総合的に舞台を楽しみに来てるんだということが、
その失敗でわかったのだけど。(当たり前か)

ただ、"共有前提からちょっとだけ前へ進んでいる"言葉の面白さというのは、
こういう実験の過程で生まれてくるのではないかと思っていて、
それは、前に進み続ける限り、情報化されない言葉、
辞書的な意味だけで捉えられない言葉、であり続けると信じたい。
posted by 鈴木厚人 at 02:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分だけの演劇論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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