2005年04月22日

交換可能な社会の部品として生きる

4月21日

日記についたコメントについて、
電車に乗りながらずっと考えていた。

「能力のない人間が敗れ去るのは世の理であり、
 自分の努力範囲内で頑張っても勝てなかったら、
 何回やっても同じことです。
 諦めて『交換可能な社会の部品の1つ』として生きていくしかない。
 目をそむけることなかれ」

たしかに、その通りだと思う。

ただね、人生というものに対して、論理を突き詰めていくと、
諦めて生きていく必要もなく、今ここで死ねばいいのです。
なぜなら、自分が能力のない人間かどうかは不明であるが、
自分がやがては死ぬ存在であることは自明であるから。
では、ワタシは、
死ぬとはわかっていて、なぜ一生懸命に生きるのだろうか?
勝ち負けで言うのならば、
敗れ去ることが必然なのに、なぜ勝負をするのか?

それは、勝負をすること自体が面白いから。
スポーツでもそうでしょ?ゲームをしている最中って、
勝てるから面白い、負けるからつまらない、ということではなく、
ただ、ボールを追いかけているのが面白いという時があるでしょ?
だから、ワタシは、自分自身の制限時間の中で、
自分が勝負を面白いと思えなくなるまでは、
何度負けてでも、勝負を仕掛け続けようと思っています。

それに諦めるにしても、自分の能力の範囲を知りたい。
知り尽くしたい。
自分にはどんな能力がないのか、例えば、脚本家として、
物語の構成力がどんな形でどのくらいの量を欠けているのか、
人物の描写力がどんな形でどのくらいの量を欠けているのか、
資料の取材力がどんな形でどのくらいの量を欠けているのか、
技術が欠けているのか、センスが欠けているのか、
どっちも、どれくらい、どんな風に?
そういう、自分の才能のなさのディテールを確認してから、諦めたい。

そのために、挑戦のチャンスはできるだけもらいたいのだけど、
どうでしょうか?
posted by 鈴木厚人 at 09:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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