2005年04月20日

"クリエイ恥部"からはじまって

4月19日

今日、僕は企画書を書きながら、
昔、ある友人が言った言葉を思い出していた。

「クリエイティブであることは、クリエイ恥部(くりえいちぶ)である。」

どういう意味かと言うと、まあ、
何かモノを創るということは、自分の恥部を曝け出すようなもんだ、
ということなんだけど、
最近、とてもこれは大事な考え方なんじゃないかと思うようになった。
なぜかというと、

喜怒哀楽という人間の基本的感情のパターンは、
実は、あまり他者を必要としない。けれども、
「恥ずかしい」という感情だけは、他者を必要とする、
もっと言えば、他者という前提がないと成立しない。つまり、

他者がいなくても喜べるし、怒れるし、哀しめるし、楽しめる、
(自分でご飯作って、その味に、喜怒哀楽できますよね?)
でも、他者の視線を感じずには、恥ずかしがれないのである。
そして、同様に、
表現というものも、他者の視線なしには成立しない。
それが最先端の前衛芸術であろうが、見る人がいなければ、
作品にはならないのである。

多分、表現というものは、
恥ずかしがり屋の僕らの祖先が始めたものなのだと思う。
その人は、いつも見られたい見られたいと思いながら生きていて、
どうやったら視線を集められるかばっか考えていたはずだ。
そして、恥ずかしいことを実践し、視線を集めまくってたはずだ。
恥をかく快感を知ったからこその恥知らずだったんだろうと思うのだが、
違うかな?
posted by 鈴木厚人 at 02:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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