2005年03月16日

前戯が足りない -内田肇さんのコメントから-

先日、当ブログにいただいたコメントが、
とても大事な指摘だったと思ったので、
全文を引用しつつ、返答したいなあと思います。

参考「なぜ、日本では演劇はマイナーなの??」
http://inzou.seesaa.net/article/2002745.html

-----以下コメント-----

 マイナーな理由は色々あるでしょう。それは、「形のないもの、形が残らないものに価値を見出しにくい」じゃなくて、観劇に時間とお金と苦痛が他の娯楽以上に発生するからです。交通費を払い、高いチケット代金を払い、狭くて痛い座席に座り、しかもつまらない、よく分からないのオンパレードでは芝居に対する行動力が削がれるのも仕方ありません。

 事前情報が殆どないのも痛い要因でしょう。ストーリーを読んでもピンと来ない状態でいき、友達が「面白いからきてよ」と言った芝居の殆どがつまらなかったり。

 では一見さんを虜にするにはどうすればいいか。最高の芝居を魅せることでしょう。製作者が自信を持てるものを提供する事。そのエネルギーと見識、ネタの熟成とエスプリが大事だと個人的には思ってます。

 花火がなぜ人が集まるか。金がかからないからでしょう。また、ある程度の満足感は保証されているからではないでしょうか。寒い、見えないといった場所の制約も事前に人は把握した上で来るわけで、芝居とは断然違いますよ。

-----以上コメント-----

このコメントにさらに、何かを言う前に、
前置きをしておきたいことがあって、
それは、芝居の作り手が面白いと思うことと、
一般の観客にとって面白いと思うことが、
乖離してるなあという気がとてもするんです。

端的に言えば、そもそもコミュニケーションがずれている。
つまらないと言われるのは、作品の質が低いのだからしょうがないが、
わからないと言われるのは、質以前に、
コミュニケーションの前提が共有されていないのではないだろうか。

たとえば、
言葉の通じ合わないもの同士が、
それぞれの言葉で語り合ったって、ずっと通じ合わないままである。
だから、コミュニケートする前提を探り合う必要がある。
例えば、
日本語と中国語なら、漢字で筆談してみる。
日本語とアラビア語なら、筆談は難しいからジェスチャーで、
と、それぞれの文化的文脈の距離感によって、
"前提"を探ってするものこそ、コミュニケーション。

つまらないと言われるのは、
内容(コンテンツ)の交換後になされる、価値の判断。
わからないと言われるのは、
交換の不成立、コミュニケーションの不成立。
では、コミュニケーションを成立させるには何が必要なのか?

まず、自分の芝居を観てくれる人が、
どんな文化的文脈を持っているのかを考える。
その人が普段どれくらい芝居を観る人なのか、
芝居に対して求めているものはエンターテインメントなのか、
ドラマなのか、それとも他の何かなのか。
それを踏まえて、宣伝活動、プレトーク、
アフタートークや座談会、別の人間による再演、
簡単に思い浮かぶのはそこら辺だけど、そういう方法。

「形のないもの、形が残らないもの」は、
花火の他にも、食事(料理)やセックスがある。
コメントの芝居の部分を、セックスに言い換えてみると、

>交通費を払い、高いチケット代金を払い、狭くて痛い座席に座り、
>しかもつまらない、よく分からないのオンパレードでは
>セックスに対する行動力が削がれるのも仕方ありません。

事前情報が殆どないと"痛い"のも、セックスにとてもよく似ている。
自分の芝居も含めて、それは本編の構成や、
観客に座席についてもらうまでの制作活動において、
演劇というものは、とても前戯が足りない気がしてきた。

まあ、私自身のセックスもそうかもしれないのだけどね。
posted by 鈴木厚人 at 12:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇マネジメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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