2006年05月23日

白夜の女騎士・なぜ、人は飛ばねばならぬのか?

作・野田秀樹、演出・蜷川幸雄の、
「白夜の女騎士(ワルキューレ)」を見たので、
感想を書いておく。

昔、なぜ脚本を書くのか、でこんなことを書いた。

人間と動物の間に区別があり、人間と人間の間に差別がある。
健常者と障害者の間に侮蔑があり、我々と死者の間に死別がある。
≪中略≫
なぜ設計図を書くのか、それは、私の周囲に存在し、
私をも切り分ける何万本もの線に無自覚でいたくないからである。
また、一人の線の引き手でありたいからである。
どういう線をどのように引くかについて、
自覚的でありたいと思うからである。


人間というのは、とにかく、線を引きたがる。
(区別も、差別も、侮蔑も、死別も、自分とは違うという線の引き方だ)
上の文章は、アイロニーだ。線など引きたくないと思ってるのに、
もう一つの本音が、線を引きたいと思ってしまうという、皮肉。

話は戻って、「白夜の女騎士(ワルキューレ)」の感想。
この芝居は、棒高跳びの選手(松本潤)が、
白い線(棒高跳びの跳躍のライン)を飛び越えていく、話なのだが、
その白い線が、人間が引くあまたの、
区別・差別・侮蔑・死別の線に見立てられていく。
だから、棒高跳びの選手(松本潤)は、
線を引く人間=思考・シコウする人間ではなく、
線を引かない人間=飛行・ヒコウする人間として、
人間という線自体も飛び越えてしまう。

だから、まつじゅんは、最後、飛んでしまうんだ。すげえ。
シコウからの逃ヒコウ!作家のすごい想像力だ。

演出的に蜷川さんが提示したのは、
棒高跳びの選手が飛び越えようとしている地上の景色が、
学生運動の景色だってこと。学生運動ってのは、
真の平等=線を引かない世界を求めた政治運動だったのに、
肝心の学生達が、セクトに分かれて線を引き合っていた、そういう景色。
そして、棒高跳び、シコウせずヒコウする人間が、
その線を、その景色を飛び越えていく。

と、頭でわかったのだが、やはり、これは、
シコウせず、ヒコウすることを求めた芝居なわけだ。
演出がわかりやすすぎて、
観客の感覚が、少なくとも、僕の感覚は、
ヒコウしなかった。シコウしてしまった。
だから、身体で面白さを感じられる芝居ではなかったように思う。
(野田の演出なら、身体で面白さを感じられたのではないかと、
ちょっと思う。)

5月22日(月)ソワレ 中2階立見席=4,000円
posted by 鈴木厚人 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 舞台レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。