2005年01月07日

笑いの国の国境

telop-plot blogの、「演劇的『笑』」で、
http://telopplot.seesaa.net/article/1450659.html

> 自分の知らない世界の笑いは本当に異文化だと思う
> が、全てを見た上でできた作品は面白いと思う
> 偏った世界では作品をみる人も偏ってくるのではないだろうか?

という意見が出ていて、
すごく微妙な問題設定だけど、
私は、全てを見た上でできた作品が必ずしも面白いものにはならないと思う。
なぜか?

演劇で言えば、平田オリザの「演劇入門」「演技と演出」などに詳しいが、
人と人がコミュニケーションをする際には、
話の内容(テキスト)の他に、共通前提となる背景や基準(コンテキスト)
が必要である。言語学の基礎である。

コンテキストには様々な層があって、
たとえば、
日本人のコンテキスト、(帰属するネイションもしくはステイト)
各都道府県のコンテキスト、(どこに住んでるか?)
職業的コンテキスト、(どんな仕事をしているのか?)
世代的コンテキスト、(どんな時代に育ったたか?)
時代的コンテキスト、(今、どんな時代に生きてるか?)
家族的コンテキスト、(どんな人間に育てられたか?)
などなど、他にもたくさんある。
ただ、コンテキストは層になっていて、
だから、家族的コンテキストは違っても、
日本人のコンテキストを共有していてたりする。
そこに笑いの秘密がある。

ある家族にとっては普通のことが、
ある家族にとっては異様なことに映る、
例えば、、、
目玉焼きにはゆずぽんしかかけない家で育った男と、
目玉焼きにはタバスコしかかけない家で育った女が、
結婚した後の、はじめての朝食で衝突する!みたいなもの。
で、そういうのあるよね!的、
ズレを包括的に見る視点、言い換えれば、
最深層コンテキスト(ここでは日本人的コンテキスト)のレイヤーで、
ズレを包めれば、笑いは生まれる。

問題は、どれくらいの幅で、共通前提を設定するか、ということだ。
当たり前だけれども、日本人的コンテキストは、国境を越えない。
(ただし、日本人が国境を越えると、つまり、たとえば、
 アメリカの人口比率における日本人の割り合いが50%を越えたら、
 アメリカ人のコンテキストに日本人的コンテキストは混ざる。)
しかし、コンテキストの幅を広げれば、密度が薄くなる。
つまり、面白いと感じることが弱まる。
だから、ある程度、幅を限定したところで、
笑いなり面白さを目指さないと、人からお金は取れない。
telop-plot blogの言葉を借りれば、
偏りがあるから、面白さの深さがある。
要は、バランス感覚。そのバランス感覚がセンスなのだと思う。

私は、現代日本人的コンテストを最深層としながら、
家族的コンテキスト、
(親と子の関係などは、外国とも似た状況になることがままあるので)
職業的コンテキスト
(どこの国でも、ある程度、職業にやる思考様式は似るので)
によって、意味が矛盾するが、主観的な普遍性を目指したいと思う。
主観的な普遍性は、主観的であるがゆえに、センスなのだ。
posted by 鈴木厚人 at 13:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇マネジメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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