2005年12月06日

「贋作・罪と罰」について

NODA-MAPの「贋作・罪と罰」の初日を観て来た。
今の自分の問題意識にもつながるので、
二つの物差しを提示しながら、感想を記したい。
もちろん、ネタバレはありである。

「贋作・罪と罰」には、明確なテーマがあるように、私には見えた。
テーマというか、対立軸である。
1.大いなる理想のためなら、人を殺すことも止むを得ない、という立場
2.理由がどうあれ、人を殺すなんて考えること自体がおかしい、という立場
便宜上、これを対立軸Aと呼ぶ。
物語のクライマックスは、
1の立場(松たか子と宇梶剛士)が、
2の立場(古田新太と美波)によって、覆される、
もっといえば、1の立場にいた松たか子が、
古田新太によって、2の立場に戻ってくるところにある。
少なくとも、初日の「贋作・罪と罰」には、
このクライマックスに至るまでのドキドキ感がなかった。
松たか子の演じる、三条英が、
"大いなる理想のためなら、人を殺すことも止むを得ない女"には見えず、
どこぞのお嬢様に見えてしまったからである。
三条英=ラスコーリャニコフは、
高慢で傲慢でプライドが高く、反面、神経質で臆病でなきゃいけないと、
私は思う。そして、そうは見えなかった。
よって、対立軸Aは、そもそも振れ幅が小さかったように感じられた。

それとは、別に、
対立軸Aという共通前提が、真に今日的なテーマとしてふさわしくないと思った。
繰り返すと、対立軸Aは、
1.大いなる理想のためなら、人を殺すことも止むを得ない、という立場
2.理由がどうあれ、人を殺すなんて考えること自体がおかしい、という立場
の対立であるわけだが、現代に蔓延している、

3.人を殺さないなんて考えないこと自体がおかしい、という立場

が、対立軸Aを中心に展開するドラマでは、
ないがしろにされてしまうと思う。全く無視されてしまうと思う。
そこが、野田秀樹の世代の限界なんだと思う。
演劇でなくて申し訳ないが、
ヤングジャンプ連載中の「GANTZ」は、
3.人を殺さないなんて考えないこと自体がおかしい、という立場
にいた登場人物たちが、
2.理由がどうあれ、人を殺すなんて考えること自体がおかしい、という立場と
4.愛する者のためなら、人を殺すことも止むを得ない、という立場
つまり、3という極めて現代的な、退屈を根っこにした閉塞感から、
2、4といういわゆる人間的と言える旧世代の共通前提に戻ってくるところに、
狂的で今日的な面白さがある。

今回の再演は「贋作・罪と罰」を、
オウム事件とシンクロさせずに見せるという意図があったと、
どこかで読んだ覚えがあるが、
そのことが却って、現代との齟齬を感じさせてしまう。
「贋作・罪と罰」の救済は、
オウム的な理想や思想で人を殺してしまうような人を帰還させることはできても、
もっと、ニュートラルで透明な存在には、届かないからである。
posted by 鈴木厚人 at 23:40| Comment(1) | TrackBack(0) | 舞台レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
一行レビューで、こんな感想があった。

初演は「感動する芝居」、
再演は「思考する演劇」。

なかなか、
的を射た表現だと思う。
Posted by 鈴木厚人 at 2006年01月14日 03:13
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